『選挙にいきましょう』に対する違和感

 初対面の人と話すときには政治と宗教と野球の話はするなといいますね。自分の内面を出さない、自己主張しない、というのは無難に人間関係をこなすコツではあるでしょう。オタクが初対面、もしくはそれほど親しくない相手との会話で、自分のテリトリーである趣味の話題が出たときに、どのように対応したら良いか迷うことも似たような課題ですね。
 まあ、そのような格言を意識したわけではありませんが、私は興味が無い野球は別として、政治や宗教について話すことに対しては慎重になってしまいます。余計なトラブルの危険性をおしてまで主張したいわけは無いですし。

 前置きが長くなりましたが、今回はそんな選挙についてです。避けた方がいい話題とかいう以前に、もう書くネタが思いつかないので四の五の言ってられません。思いついた事を書きたいと思います。

 とりあえず、選挙には行ってきました。あまり真剣に情報を集めた上での投票ではなかったので、やっぱり話題にするべきではないのかもしれません。そもそも行ったから偉いとか自慢できるとかいうことではありませんが、選挙に行かなかったという人の発言を聞いたときに感じる気持ちはなんなのでしょうか。選挙結果やその分析についてはするつもりないというかできないので、今回ちょっと疑問に思った選挙に行くこと自体について考えてみたいと思います。
 選挙権を得てから暫く経ちますが、いままで選挙に行かなかったのは1回だけです。私が選挙に行く理由を考えてみると、候補者や政党を自分で選びたいという意思よりも、選挙には行くべきであるという漠然とした強迫観念みたいなものがあるからのように思います。行かなかった1回に対しては、今でも理由の分からない漠然とした後悔というか自責の念があるのもそのためでしょう。
 どの候補者や政党を選んでも大差ない、自分ひとりが行ったところで何も変わらないというというような、お決まりの拙いニヒリズムは格好悪いと思うのですが、自分の1票が重要であり政治を変えるんだとまでは思えないのも確かです。
 そのような意識レベルなので、『選挙に行きましょう』という言葉に対しては違和感を感じます。別にそのような発言をしている人に対して非難をするというわけではないのですが、自分が誰かにそのようなことを言うことは抵抗感があります。言われなくても行く人は行くし、言われても行かない人は行かないという、発言に対する空しさみたいなものもあります。優等生的な正論に対する反発心もあるかもしれません。
 一般論や正論としては、選挙に行くことは正しいことです。当たり前の事ですが、行くことに問題があるという訳では決してありません。しかし、なんとなくのイメージや外部からの表面的な情報で選ぶという、投票先をサイコロを振って決めているのと大差ないような選び方をするぐらいなら、逆に行かない方がいいのではないかと思ってしまいます。
 理想としては、すべて有権者が自分の頭でしっかり考えた上で投票を行うことだと思いますが、現実的はありえません。
 だからお決まりの結論としては、一人ひとりが意識を高く持つことが大切であり、まずは自分が真剣に政治を考えていこうとなるのでしょうが、それも簡単にはいかない非現実的な理想論ですよね。こんなことを言ったら怒られそうですが、興味をもてないものは、いくら強制されても興味はもてません。だから、選挙に行こうと興味が無い相手に強制するような発言に対しては、空しさとともに違和感を感じるのです。
 結局、直接的な危機感を感じるまで意識は変わらないのでしょうか。いや、そのような状況になっても、自発的に政治に興味を持つのは一部の人だけであり、理想論は理想論でしかないのかもしれませんね。