書きたいこと

  • マンガ話
  • ネット論
  • オタク論(非オタクとの比較論)
  • 自己分析(オタク論にも繋がる部分あり)

 結局、どれもネットではよくあるような話題ばかり…
 これらを独自に論じるために必要な知識や能力には不安がある。ネット上にはすばらしく切れ味の鋭い文章を書く人がいる一方で、なんの価値があるのか自分には理解できないような文章も山ほど転がっている。自己満足な文章に価値が無いのは確かだと思う。少なくとも、他人が読む事を前提とした際に、毎日の報告みたいな独りよがりの文章や面白い面白くないというような単純な感想を垂れ流すことは、時間とWEBスペースの無意味な浪費でしかないだろう。他の人が読んで面白いと感じるような文章にする努力が必要である。

 大多数の人間が価値の無いと判断するような文章がネット上に氾濫することの一番の問題点は有益な情報を見つけ辛くなることだと思う。2ちゃんねるの大規模化に伴い確かに有益な情報も増えたがそれ以上の比率で無駄な情報が格段に増加した。つまり情報の濃度が薄まったということだ。現在の2ちゃんねるで有益な情報を探すことはまさに砂金を探すような状態になっている。砂金を採りたいだけの人間には耐えられないだろう。砂金を探すことにこだわらず砂にまみれ遊ぶことに楽しさを見出すことが出来れば面白い空間なのだろうが、これは自分には向いてないようだ。このことはblogの普及にも当てはまることだろう。特別な知識が無くても持つことが出来るblogの登場によりWEB上の表現者は増加したことも同様である。この現象の捉え方は人それぞれだろうが、個人的には面白いサイトが見つけづらくなったり、読むに耐えないくだらない文章を読まされる機会が増えるなどデメリットの方が目に付く。もちろん、価値のある文章や情報を提供する人間も増えることも期待できる訳なのだが、結局のところ自分のこの感情は今まで快適だったコミュニティが変化することの不安なんだと思う。

 しかし、自分の文章の価値を疑い(正確には他人の批評に怯え)、神経質になりすぎる事にも疑問を覚える。人の目を気にせず単純に書きたければ書けばいいという気にもなってくることはもっともだ。事実、多くの人はblogを公開することにそれほど大きな意義は見出していないと思う。自己顕示欲や表現欲に従い書きたい事を書く、それはそれで何の問題も無い当たり前のとこだ。

 ある意味で開き直った無責任な言い方になるが、もし読みたい人がいれば読んでくれればいいし、読みたくなければ読まなくていいという、ネット上では当たり前に行われている情報の取捨選択に任せるのが一番楽なのだろう。一方的な情報発信である限りこれで特に問題は無いと思う。自分がつまらない文章だと感じるから相手に書くなと言う権利はもちろん無いし、この場合は次から自分が見に行かなければいいだけだ。最初につまらない文章を読まされたということはしかたないと諦めるしかないわけだが。

 ……と、自分の文章への自信のなさを弁護する予防線をたっぷり張ったところで、とりあえず飽きるまでは、頭の中で加速した思考をとりとめない無駄な文章に変換して書き連ねていこうと思う。