マニアは、作品内容ではなくその表現方法に注目する

「叱って」るわけじゃないですよ。お間違えなきよう。』(伊藤剛のトカトントニズム)

たとえば、映画に関する言説史を少しひもといてみれば、作品で「何が」語られているかではなく、「どう」語られているかに批評や研究がシフトしていったことが分かる。「表現」は成熟していくと、だいたいそういった経緯をたどるようだ。マンガもまた、例外ではない。もちろん、この話にはマニア層の「成熟」も含まれる。

 これは私も他の人のレビューなどを読んでいて以前から感じていたことです。視点がマニアに寄りになると、作品の内容からその表現方法に関心が移行します。つまり作者の技量に注目するようになるということです。

 例えば、「ネギま」を描いている赤松健は、非常に上手い漫画家だと思っています。これは、作品自体を面白いと感じるかというような、個人の好みの話ではなく、マンガの描き方、やり方が上手いという意味です。計算された描き方をすることで成り立つ需要と供給の関係、そして両者がそれを分かってやっていて、楽しんでいるという構造は素晴らしいものだと感じます。

 マンガや文章を読んでいると、『面白い』と感じるよりは、『上手い』と感じることがよくあります。これは純粋に面白いという感情が発生するのと同時に、その理由を考え、その面白さの原因となった表現方法に対して感心し上手いと感じているわけです。明らかに、読書中の視点が『作品』と『作者』の間を行き来しています。

 こういう読み方って、個人の感性にもよるのでしょうけど、他の作品との比較で成り立っている部分があるので、ある程度マンガを読んでいる必要があるかもしれません。マニアが、今までに無かったような新しい表現や発想を評価するのも同じことだと思います。新人漫画家の作品を読む楽しみなんてのも、作品の完成度というよりは初めて読む漫画家の腕への期待感の方が大きいです。これって大げさに言うと、編集者の目線に近いということなのかもしれません。

 色々と偉そうに書きましたが、別にどういう読み方をするかはなんて自由です。当然ですが、ひねくれた読み方をするべきというわけではありません。別の見方をすると、個々の作品自体を素直に楽しめる方が得だともいえるわけです。

登場人物に対する感情移入や、それこそ作品世界に安心して没入するという読みを抑圧するものでも、退けるものでもない。そうではなく、「それ以外」の読みもあったほうがいいでしょ、もっとマンガの楽しみが広がるでしょ? といっているにすぎない。

 結局、私もこういうことなのだと思います。どういう読み方をして、どういう感想をもっても自由であるということでしかないのです。他人の感情を変えることはできません。それを理解した上で、批評や分析を批判することは意義のあることだと思います。